いくらか元気を取り戻してきた昨年あたりから休日には散歩をするようになった。一人ではなんとなく不安なので妻に付き添ってもらって町内を歩いている。歩きながら、人間の基本である「歩く」という行為をこれまでいかにないがしろにして来たかを痛感させられた。思えば頭だけで謀り、頭だけで笑い、頭だけで悲しんできた人生だった。私にとって厄年は人生のマラソンコースの折り返し点のようなものだった。頭が要求する地位や名誉を得んがために走り続けて来た往路から復路に入るにあたって、もう一度、真に大事なものはなんであるのかを考えさせてくれる期間でもあった。今年の節分で後厄も終わり、体調の方もまずまずのところまで回復して来た。とりあえず往路を走り終えてくれた体に感謝するつもりでタバコをやめた。これまで何十回となく失敗してきた禁煙だが、今回はなんとなくうまく行きそうな予感がある。病んだ者の視線は例外なく低くなる。人間として持つべき最も大事なものは頭の切れの鋭さでも、ましてや学歴とか富ではなく、ただひたすらやさしくあることなのだというようなあたりまえのことが、低くなった視野に見えてくる。厄年は医学的にも、体が老年期に入る入口に来て様々な異常が表に出てくる年として注目されている。私の場合も、男の更年期障害であったのだと思えば納得がいく。神社に行くかどうかは個人の自由だが、厄年を迎えた男たちは、しばらく立ち止まって、走り続けてきた自分の往路を振り返り、今後の復路の走り方を考える余裕くらいは持つべきであろう。もしかしたら、厄年とは神から各自の人生に与えられた大いなる休暇なのかも知れないのだから。